名称改正のお知らせ
こんにちは、北海道開拓写真研究協議会代表の中村絵美です。
2016年10月に発足した「北の開拓写真研究協議会」は、本年2017年7月から名称を「北海道開拓写真研究協議会」と改称し、活動をすることとなりました。それに伴い、ウェブサイトもリニューアルいたしました。
日頃よりたくさんの方々にご協力頂くことで1年間活動を続けていくことができました。この場を借りて御礼申し上げます。
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北方開拓のため明治政府が北海道に開拓使を設置したのは戊辰戦争終結年の1869(明治2)年でした。開拓使は、アメリカによる西部開拓の記録写真事業に倣って、1871(明治4)年8月20日付けで、函館で写真館を営んでいた田本研造に対し札幌とその周辺の撮影を命じました。これら北海道開拓事業の記録写真が、現在「開拓写真」とか「北海道写真」と呼ばれる写真群形成の始まりでした。
この写真群は、1968(昭和43)年、おりしも開拓使設置から100年後の「写真100年−日本人による写真表現の歴史展」(主催:日本写真家協会)の調査により「発見」されます。そして、コマーシャリズムから離れた「北海道ドキュメント」(内藤正敏)であると評され、日本の写真表現の原点の一つとして高く評価されることになりました。
また、当時は北海道内でも一般にカメラが普及し始めたこともあり、北海道では多くの写真愛好者が、旧満州や樺太などからの引き揚げ者や東京や大阪などでの空襲被災者による戦後開拓、先住民族、アイヌの日常の暮らしなどを撮影しました。当協議会が扱う、写真家、掛川源一郎、アマチュア写真サークル、長万部写真道場などの写真活動は、そういった背景の元に成立していきます。
これらの写真は今や膨大な群をなし、一枚々々が切り取る瞬間を超え、一人々々の作家の行為を超え、時代をつらぬき連続する記録としてあります。
私は、いま北海道に住むものの一人として、写真表現の世界では語られる事のなかった人について、ここでお話ししてみようと思います。「北海道の名付け親」と呼ばれ、北海道開拓写真同様かそれ以上の扱いやすさゆえ、様々な功績が「再発見」され、道内各地で顕彰されている松浦武四郎のことです。
松浦は、開拓使設置時に「蝦夷地」調査の実績を認められ、長官、次官に次ぐ高官職である開拓判官に任命されます。しかし、翌1870(明治3)年、松浦はアイヌ民族に対する搾取を行いつづける開拓使上層部を批判し、わずか7ヶ月で職を辞し、そして再び全国行脚の旅に出てしまいます。
松浦は江戸末期から各地のアイヌの助けを借り、全道各地のみならず樺太、千島列島を踏査し、そこに暮らす人々や土地の姿形を詳細に記録していきました。松浦が開拓使在職中に提案した島名「北加伊(きたかい)道」には、手塩川系地域を踏査する旅の途中に、アイヌ集落の長老アエトモからアイヌの自称であると教わった「カイ」の音が含まれています。政府はこの案を受け「北海道(ほっかいどう)」という名称を決定しました。この名付けには、松浦が旅した北方の島々(北海道・樺太・千島)に暮らすアイヌ民族を、先住民族として尊重する思いが含まれていたとも言われています。そうであれば、松浦は現実の北海道に自らの理想とは反する虚構性を知り、この島を去ったとも考えられます。
松浦が批判したのが、まさに松浦が離職した翌年、写真師たちに北海道の記録を新たに命じた開拓使であったことを、私たちは覚えておかなければならないでしょう。
現代に至るまで膨大な写真記録によって綿々と形成されてきた、「北海道写真」とも称されるこれらの写真群に、どのような眼差しを投げかけ、何を見出すことが可能か、今まさに問われる時です。
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当協議会では、引き続き、北海道内に現存する写真資料の調査および保存利用の手法を検討する活動を行います。これからの時代に有益な文化遺産として、明治初年前後から昭和までの北海道の写真を保存・管理し、各地に残る北海道の写真についての研究に資する情報ネットワークを構築・運用し、有用なアーカイヴの作成をしていくことがどのように可能なのか、話し合い、行動していきたいと考えています。
今後もこのウェブサイトを通じて、活動の情報発信などを行います。
よろしくおねがいいたします。
中村絵美
2017年10月12日